さて、前回に引き続き「思い」について、今回は私自身が体験した「思い違い」の怖さをお話ししたいと思います。 

7〜8年前のことになるでしょうか、我が家には20年来植えられていた柿の木がありました。この柿の木は沢山の実をつけ、毎年ご近所の方にお裾分けをしていたのです。それでもまだ、食べきれないほど実っていました。

でもある日、私は柿の木を見上げながら主人に向かって、

「こんなに沢山実ってもしょうがないのよね、渋柿じゃあ」

と言ったら、その翌年からパッタリと全くならなくなったのです。そして2〜3年経ってから今度は、

「この柿の木、実もならないし、植えててもしょうがないわね。切り倒して他の木を植えましょうよ」

と主人に言ったのです。


そしたらその年、台風で我が家の裏の崖が崩れ、修復工事をするために「柿の木がブルドーザーの邪魔になるので切らせて下さいませんか」と職人の方に言われたんです。主人は、私がいつも「あの木はしょうがない」と言っていたので「どうぞ、いいですよ」と答えたそうです。

次の日、職人さんが「奥さんすみませんが、柿の木を切り倒しますのでお塩とお米を下さい」と言ってきました。私が言われたようにお盆にのせて持っていくと職人さんは、柿の木の根元にお塩とお米をぐるうっと撒いて、直立して、帽子を取って「ただ今から切らせて頂きます」と言って頭を深々と下げたんです。

私はその姿を見てびっくりしました。そして「私って、なんて身勝手な人間なんだろう」心から、「ごめんなさい」と我に返る気持ちでした。

柿の木が小さく切り刻まれて、トラックに積んで持って行かれた時、本当に涙が止まりませんでした。

何も物を言わない、私たちに一言も語りかけられない柿の木が「私の思うこころの通 り」になってしまった。この「思い」の怖さ、人間に対しては? 主人や子どもや親や周りの人たちにどんな思いで、他人の人生をあやめているだろうと思ったときに、人に対しても柿の木を倒すような、わがままな人間になってはいけないし、また、倒されるような『自分』であってもならない、ということを強く感じました。

20年間、我が家に植えられていた柿の木の切り株が「思いあがるなよ、感謝を忘れるなよ」そう言って去っていったような気がします。

昨年の秋、次郎柿の苗木を植えました。暑い日差しに30センチほどに伸びて元気よく育ちそうです 。

今、改めて思います。自然の中に生きている『いのち』に対して、謙虚に、そして感謝していきたいと!


平成10年8月(第7号)